寒の戻り

もう一気に春かと思てたらちと寒い日でしたね。出先の京都では朝のうち雪も舞ってたみたいで…。
早々におうちに帰って来てすぐストーブをつけ、火に当たるとからだがほぐれてくるのがわかる。例によってストーブのうえにお鍋をかけ、今日はそのうえで関東煮(「かんとだき」と読む。おでんのことをこっちではこう言うの)を煮く。おかげで部屋じゅうが昆布だしのおつゆの香りに染まってしまったけど、ま、いいか。(服に匂いがうつってたらどうしよう…)
煮物は冷ましてくうちに味が染みるので、火からおろしたりまたかけたり、煮えやすい種は今日じゅうに上げるけど、あとは明日まわしにしよ。…と思ってから、あ、そーだ。明日は朝からいちんちお出かけで、昼食も夕食も外食だった…と気づく。ま、ええか。冷蔵庫に入れておこ。こうして同じおかずを食べる日々が続くわけ。
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つけっぱなしの衛星放送のテレビで『わが命つきるとも』A Man for All Seasons
こんな作品があったのね!フレッド・ジンネマン監督のイギリス映画、トマス・モアの伝記で、1966年度アカデミー賞の作品賞、監督賞、主演男優賞(ポール・スコフィールド)ほか6部門受賞とある。えらい地味な作品で、娯楽性はなくてもお勉強になる“良質の”歴史映画をつくろうという意図か。アカデミー賞の歴史にはこういうのもまた確実に生きている。今年なんかでいえば『ネヴァーランド』がそれにあたるんだろう。良心的な素材を良心的に(地味に/文学的に)描く程度の“良質の”というのは、芸術性とはたいして関わりないし、映画としての価値にもあんまり関わりないと思うのだが…。
そのあと引き続き、劇場では見てなかったレオナルド・ディカプリオの『仮面の男』(小説の邦題としては『鉄仮面』のほうが通りが良いと思うが…)。こっちは豪華な演技派俳優陣使いながら演技より娯楽が先立つあたりの荒唐無稽ぶりがいっそ心地よい。
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ちょうどいま電車のなかの読書がミシェル・ド・モンテーニュの評伝(堀田善衛『ミシェル城館の人』)で、時代的に同期しました。
こういう歴史ものを見るとき/読むときは、(日本の歴史ものなんかもそうだけど)、いまつくってる/見ているわたしたちの倫理観とか感覚とかで見ちゃいかんだろう。おんなじことやってても、たぶんその時代の人間は別なふうに感じていたはずだ…と思い、どんなふうに感じていたのかを想像しながら見る/読むのが習い性になっている。
嫌いなのでちゃんと見たことないけどNHKの連続歴史ドラマなんてひどいもんなぁ…同じ時代のことを幾度も取り上げるけれど、史実をうつすというよりは、それが製作された同時代の倫理観とか感覚とかを描きたくてやってるみたいだもの…。
利家とまつがこんなことしゃべってるかーい!とか(笑)、台詞がそれらしくないというのもあるのだが、しかし考えてみれば、その時代そのもののことばをつかって映画なりテレビドラマなりをつくるというのは土台無理なのだ。『仮面の男』とか、フランスの宮廷でなんでみな英語しゃべっとんねーん!と言いたくなるけど、じゃ、現代フランス語でやったらどの程度ましか。デュマ・ペールのテキストを忠実に再現したとしても、やっぱりちがうんだろうしなぁ…。
トマス・モアの伝記映画も、イギリスの俳優連をキャスティングして、イギリス英語で格調高くやれば、アメリカ人が見ればなるほどこれがホンモノだとか重厚だとか正統だとか感じるんだろう。
けど、英語じたいも中世英語と今のBBC英語とはちがうし、堀田善衛氏の本によれば、トマス・モアの頃のヨーロッパ(イギリスも)の、インテリ階級はラテン語が共通語で、おかげで知識人はヨーロッパ全土を自由に行き来して活躍できたという(単なるデファクト・スタンダードでヨーロッパ系の俗語のなかでも思いっ切り怪しい英語なんかが、それもさらにそれがポップに砕けたアメリカ英語が世界共通語みたいな大きな顔して通用している現代よりはよっぽど文化的だし公平であるとは思う)。ミシェル・ド・モンテーニュなんかは父親の教育方針のせいで、母語ラテン語とすべく、ものすごく人工的な環境で育てられたというし…。
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あ…と。上記は“ホンモノ”とか“正統”とか“良心的”への色気がある歴史もの映画、ドラマについての話で、日本のチャンバラ映画とか娯楽時代劇はまたちがうと思いまっせ。あ、『仮面の男』なんかはそうか。
もちろん作られた時代の倫理観などを反映するのは同じで、戦前戦中戦後の時代劇比べるとようわかるけどね。
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どんな素材撮っても“愛”がいちばん大事というハリウッド映画の倫理観がデファクト・スタンダードとして世界を席巻するのもなんとかしてほしいと思うけど…。