京都からの帰りに

高槻で途中下車して『ダヴィンチコード』見てきました。
(昨日が映画の日で1000円だったのと梅田まで出ると時間ギリギリでなおかつ混んでるんじゃないかなぁ〜と思ったため。それにしても高槻TOHOシネマ空き過ぎ…映画の日でなおかつ『ダヴィンチコード』なんてメジャーな作品で、それでやっていけてんだろうか???)
もひとつやったなぁ…すごくわかりやすくつくってるんだけど、わかりやす過ぎつーか。
ロン・ハワード、映画をよく知ってる監督らしく手慣れたもんなんだけど、手慣れ過ぎつーか。
オドレイ・トトゥはミスキャストかなぁ…。べつに悪い女優さんじゃないんだけど、いかにも貧相…。(スティーヴン・フリアーズの『堕天使のパスポート』でやった貧しい移民役なんかのほうが似合てるひとです)。この役はもっとフランス人女性らし〜い華やかなひとにやってほしかった。フランス女優を代表するような品格のある人でないといけない役なんで、ひと昔前ならソフィー・マルソーとかそれより前ならカトリーヌ・ドヌーヴとかがやったとこなんだろうか…。
 
それにしてもフランス警察がめちゃくちゃ間抜けに見えた。それだけ、ハリウッド(アメリカ)映画てことなんだろう。アメリカから見たフランス、イギリス、旧大陸、旧文化。
映画に出て来る「外国人」って(日常生活でもかな?)なんかアホに見えますね。
日本映画に出て来る「外国人」はなんか鈍感そうに見えてしまう。白人中心のハリウッド(アメリカ)映画にアジア人が出て来ると、観客であるわたしはアジア人なのに白人の目に同化してしまって、アジア人が何考えてんだかわからない人に見えてしまう。
「目」なんだな。その映画を支配している文化のひとたちの目の表情を基準として見ていると、そこから距離のある(離れた)目がなにか「うつろ」に見えてしまう。表情を欠いた目。人間らしい感情がないような、ものがわかっていないような、なにか疎外された雰囲気にみえてしまうのだ。
ジャン・レノとかもちろんちゃんとフランス語しゃべって普通の(普通でもないか)フランス人を演じてるわけだけど、ヘンだったなぁ…。(もちろんこれがフランス映画にアメリカ人が出てくる場合…例えばおなじくジャン・レノが刑事やった『クリムゾン・リヴァー』とかは逆になるわけですが…)