幽霊ではない

べつにこれといってとくべつな読後感もないので(いつもの村上節)読書日記には書きませんけど、いつも行く図書館で開架にコレ↓の単行本が出てたので読みました。

レキシントンの幽霊

レキシントンの幽霊

こんなかに収録されている『トニー滝谷』という短編が市川準の同名映画の原作なため。で、もう最初の数行読んで「これってイッセー尾形とちがうやん!」(笑)。息子と親父の二役やってたけど、どっちもちがうと思う。共通点はカタカナの名と漢字の姓がこの順序でつづく名前だけか(笑)。
ついでにいえばヒロインも宮沢りえではないな。というか、村上春樹のヒロインっていっつもおんなじイメージ(髪がながくてほっそりしてて儚げで顔のイメージが薄くわたせせいぞうが描くイラストのヒロインの顔がぽっかりない感じ。このたびは服だけを残して消えていくのでそういう意味でも顔だけがぽかっと抜けたアバターみたいな感じ)なので、宮沢りえのほうがそれに肉が付いているだけ魅力的。原作ではヒロインの体型を「7号、身長161cm、靴22cm」としてあるところ、映画ではちゃんとりえちゃんの体型にあわせて数字変えてあったと思うし…。
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とはいえ、そういうことを確かめるために読んだのではなかったのだ(文体を味わいたかったのだ)。
映画と小説とはそもそも別ものだしね。
ただ、ゆくりなくも、そういえば小説読むときにいっつも(特にミステリーなど登場人物らのキャラクターが重要な小説で。…そうではない作品もいっぱいあります)その登場人物の姿をぼんやり思い浮かべながら読むなぁ…しかしそれって現実の肉体をもった人間とは全然ちがうイメージとしての人物像だなぁ…と思ってました。
それは、メールやウェブなどインターネットで知り合って実際の姿を知らないうちの知人でも。お会いしないうちでもなんとなくぼんやりイメージとしてそのひとの人物像を思い浮かべるのですけど、実際お会いしてみると必ずちがいます。それは「イメージとちがっててガッカリ」という意味ではなく(そういうひともいるけど(笑)…わたし自身そうかもしれんけど…)、現実の肉体をもった人間って、かならずどこか標準とちがって突出した(あるいは凹んだ?)部分、その人らしさというか個性的な部分というかがあるんですけど、ぼんやりイメージで思い浮かべてるのって、そういう差異の部分を捨象した人物像なんですね。あるいは絵のキャラクターみたいなものかもしれません。
わたしはたとえば大島弓子のマンガを萩尾望都の絵でもってあたまのなかで再現する…なんてワザをときどきやるのですけど(笑)、そういうのができるってことは、なにかマンガ家それぞれの描くキャラクターの差異を捨象した、なにか標準的(といっていいのか?ステレオティピカルな?うーんいいことばが思い浮かばないが…)な人物像のイメージが基本にあるからだと思うのです。
で、実際に、現実の人間とお会いしてみると、そりゃーどんなに美形のひとでも(美形の人間ほど標準的なイメージに近いそうですけど)、どこかその人らしい特殊な部分があるので、なにか違和感感じてしまうわけ。
でも、しばらくしゃべってると、それまでのイメージとそれまでの記憶とが目の前のそのひとにうまくのっかってきて、もうこの人はこの人でなければならない確固とした「その人」のイメージができあがるんですけどね。